大宮氷川神社での薪能を見てきた

能は初めてである。

昔の記念切手で「序の舞」と言うのがあって、それに繋がる形で興味はあったが、実際にとまではならなかった。

薪能」の響きと神社の屋外で、常設のものとは違うカジュアルの感じに思われて参加してみるこにした。

他にも、娘が大宮で、その行く途中辺りのところに仕事に行っていることも気持ちのひとつであった。(その娘はそんな気はないようだったので、われら夫婦だけで。)

やはり薪で舞台の両側に松明の篝火をするのだな。

始まりは17時40分とこの季節ではまだまだ夕陽の明るい時間帯だったから、ちょっとあまり感じなかったが、演目が進むうちに暗くもなってきて、雰囲気も出てきていた。

演目は三つ、「敦盛」、「蝸牛」、「鉄輪」。

「蝸牛」(かたつむり)は、面白い。みんなに受けていた。単純でわかりやすく、言葉もはっきりだから。

しかし後の二つは、言葉が聞き取りにくく、理解しにくいから難しかった。

あと、個人的なことになるが、自分はこのところ、耳の左右のバランスがおかしくて、音の種類、高音とか特に右耳の聞こえの良くないことが表れて、音源の方向感がずれるのである。

特に演者の一人、お面と付けて演ずる一人の声だけが、ずっと左の方から聞こえるように思え、かと言ってマイクスピーカーの様子までは確認もできないし、でもお面をしてては声が通りにくいのではないか、だからマイク使っているのか、そしてスピーカーからの音がそのスピーカーの位置も定かではないから位置方角を誤認するのかと思ったりしていた。

そんなことを気にしながらのことであるから、そしてその時の声が、言葉が聞き取りにくいのであった。だから、なお更に理解が難しくなったものと思う。

これは私だけの個人の問題ではあろうと思うのだが、まず思ったことを述べてみているのである。

歌舞伎とかもそうだが、どうも言葉の理解がしにくい。年と共に言語能力の衰えなのであろうか、とか心配になる。

記憶が、今聞いたことが他のこと聞いているうちにどんどん、すーっと消えるように忘れていってしまう。だから、謡いなどで、言葉が長ーい長ーい伸ばした言葉だと、音を認識することの問題の外に、言葉としての理解にも問題になるのだろうか。

ちょっと別の心配のことになってきた。

皆は、標準的には、皆は、理解できているのだろうか?

客観的な状況を知りたいものだ。