いろいろ触れて見たくなる、今度は「能」

この五月に大宮の氷川神社で「薪能(たきぎのう」がある。

新聞の折り込みちらしを見てのことだが、家内と一緒に観てみようか。

そして予約して、昨日だがチケットの受け取りをしてきた。

芸能にしろ、スポーツ、芸術、いろいろあるね。

何もかも出来たり触れたりするのは無理なことであるが、そんな中でこれにその気になったのは、知人のこととか、さらに遡ってのかすかなことが、今に繋がって、気持ちに湧いてきたものと考えている。

中学生かのころに切手収集をささやかにやった頃があって、その中に「序の舞」があり、これを数枚持っていて、その中の1枚をあげたのであった。

実はそんなことは記憶にないほどだったのだが、昨年辺りにその者が能の話を聞いた中にその演目のことが出てきて、そこで切手のことを思い出し、そして私に連絡をくれた。

そんな話をしている折に、その収蔵の場所をネットで調べたりしていたすぐ後あたりに、その展示会が東京芸術大学美術館で催されることを知り、そのことを話したら、では一緒に見に行こうとの話になった。

でも一緒には行けなかったが、それぞれに連れと一緒に見てきたのであった。

これは絵だけであり、すると今度は実際の舞台を見たい気持ちも湧いてきた訳である。

頃も、銀座には松坂屋の後に銀座シックスが出来、その地下の方には能舞台も渋谷から移転してきたとか、ニュースも聞いたりしていた。

でも、なかなか本格的には行動に移しにくかったのだろうが、あまり焦ることもないし、日ごろのことはいっぱいあるので特に何をするではなかった。

そんなところで今回のことだが、神社の境内で行う、それが比較的近い(自分は浦和で)ところで、そして娘がその大宮で仕事に通っていることも気持ちの動機として後押しして(そんなことではまた今年の初詣もこの神社で)となっている。

そんなところだが、軽い気持ちで触れてこようと思っている。

 

ところでちょっと残念な思いをすることがあるのだが。

期待して良い席を得たいと頑張ったのだが、あまり良い席を取れなかったこと。

それが自分のせいなら致し方ないのだが、電話で予約という、見えにくい中でのつまらない状況を経たためだ。

予約受付開始時間になってすぐに電話をしたのであるが、繋がらない。

「話し中」だな。

これは致し方ない、と思うね、普通だね。

しかし、これでは再度コールし直さなければならない。

しかしそれで繋がる保証は無いのである。

出来ることは、かけ直すこと、何度も、何度も、何度でも、何度でも、、、

これしか出来ない虚しさ、そのうちにはアホらしくなってしまった。

でも始めたのに何も得られないのはさらにアホみたいで、それからは気持ちを取り直しては時々、トライしたり。

もう今からではたとえつながっても遅れで良い席にはならないと思いあきらめてポツリとトライしたところ繋がった。2時間を過ぎたころ。

電話応答にひとくさりブツブツ言ってみてもしょうがないけど、とにかく申し込みをしたのだ。

そして昨日にチケット受け取りに行って、席の確認をしたとき、もう最後列から3、4列辺りだ。それでも同じ高い料金で、それも頑張った結果とは、新しいものに触れる気持ちに水を差した感じになってしまった。

だいぶ後ろだねと窓口の女性に話すと、申込が遅かったのですかと聞かれてしまう始末。

時間きっかりに並んだのだ!と(叫んだ)。

このシステムでは、誰がどれだけ待たされたり諦めたりしているのかわからないだろう、交通渋滞で無駄してることの何と大きいことか社会のロスでもあると同じことと思うのである。

そこでもひとくさり論をしてみたものの、意見は伝えるとは言うものの、考えてみれば窓口なんて、門前払いできれば立派に役目したことになるようなものだから、何にもならないけど、まったく堪らない。

この頃は皆が感じていることをどれだけ示せるのか、ネットとか一方的な通知メールとか、気持ちを受け付けないシステムが多いから、反応が伝わらない。それをいいことにして運営しているのが多いと思う。逆にSNSとかでの部分だけで強く表されたり意識されたり何かずれた社会になってる気がしてる。だから電話や対面では出来るだけ気持ちを表示するようにしようと思ってる。

そんなこともあって、ちょっと残念なのだが、やはり、気を取り直して、比べるのは何とか抑えて、ここから始めて行こうと思いつつしている。