何か書いてみよう

お盆も終わって、イベントの終わった穏やかな気持ちとも言えなくもないが、緊張感が一つ抜けただけとも言える。
これも前回書いたときからすでに2週間ほど経っている。
その間にもいろんなことがあって、当然、何もしてないわけではないから、いろんなことが有るわけで、それがなければ変であるな。
思い出すこともあれば、思い出さないこともある。
思い出さないことは何かをしようとか、書いてみようとか言っても、思い出さないのだから、やりようがない。
そもそも思い出さないことがあるのかないのか、それさえわからない。
ただ、これまでの経験から、そのときは思い出さなくても、だからそのときには有ることさえ思いもしないのだが、それが少し後になって思い出したりすれば、そうかそんなことがあったのか、思い出さなかったか、忘れていたのか、と思い返すことになる。
このようなことがあるから、思い出さないこともいろいろあるのだなと経験から感じていて、それを常日頃気にしているのかな。
まだこんなことを考えることができるのなら、自分を見つめたり、行動を考えたりすることができるのだろうが、これが自分でこんな風に思うことをしなくなってしまったら、思い出さないことなんて有り得ない、と思うようになったら、どうする。
全く自分の思うところだけが世界の状況と思うのだろうか。
それに合わないことを言われてもそんなこと無い、となるのだろうか。
理屈も何もなくなったら、何をもとに本当と言えるのか、何もなくなってしまう。
何か人間の精神について考えてしまう。
何か書こうとしたら、書くことはいっぱいありすぎて書くには時間と労力が必要だし、その内容によっては、書き様によってはいくらでも書けるだろうし、書けば書くほどまた書くことが出てくるだろうし、そして書くことが行ってきた事実としてのその後の考察や思い出すことの材料となるし、その状況を分析したり表現したりしたら、全然収束しない。
ああ、まただめだ。
リカーシブだ。
再帰的だ。
だいぶ前に、プログラムのことでリカーシブ(再帰的)に興味を持って、実際にそのようなプログラムをいくつか作成している。
すぐ思い出すところでは、ウィンドウズのファイルディレクトリの操作などがある。
サブディレクトリをどんどん辿る処理でこれを使わないときりの無いプログラムになってしまうのだ。
リカーシブを使うと、その先の処理は今やってきたことと同じことを行うのだから、その先のサブの部分の処理は今の行っているプログラムに任せればいいじゃないか、と。
つまり処理の途中で、その中の処理は自分にやらせる(自分自身の処理をCALLする)。
夢の中で夢をみている夢を見ていて、またその夢の中では夢を見ている夢であるような。
ビデオカメラのモニター画面をテレビに映しながら、そのビデオカメラでそのテレビ画面を写すと、そのテレビの中にはをれを写しているテレビの映像が表示され、その映像の中のテレビにはまたテレビを写しているからそのテレビの画面が写っている、そしていさらに、、、、きりが無い、どんどん小さくなっていくが、きりが無い。
なんかそんな感じ、今の頭の中。変なのだろうね。
暑さでやられちゃったのかな。
暑さはきらいでもないけど、クーラーを併用すれば気持ちいいし、運動で汗をかくのも気持ちいい。
しかし身体は疲れることもある。
昨日は、お芝居見物。
しかし、一個目の出し物では、ほとんど、全くのくらい、見ていない。眠っていた。
そして銀ブラして帰って。
疲れてるのだろうね。
今日も暑い。
蒸し暑い。
しかし昨日とかほどではない。
だからタンクトップと半ズボンで部屋にいて、扇風機を弱くかけていて、気温をみれば内も外も30度くらいで、クーラーなしで過ごしているが、平気なのか、暑さでかボーっとしているのか、なんだかわからない状態。
もう、どうにも止まらない。
キーボードを動かして何かを書くことは、いちおう頭も働かせているわけで、無駄ではないようにも思うのだが、やはり時間がもったいないし。
やめよう。