雪、全然影響なし、そもそも降ってない、東京

御嶽山噴火のことや予想外の土砂災害とかが残した社会的影響と言えるだろう。
予報の確実性を求めるより、それがブレる可能性の悪い方向に重心を置く姿勢と言える。
こるが、もっと以前なら、予報の外れと、批判されたり揶揄されたりで、そうならないために予報の正確性に努力する一方、最悪の可能性には確率の問題から表明することが困難な時代だった訳だ。

ところが、その、確率は低いが、油断大敵で甚大の災害となる現実を次々と目の当たりにして、社会の予報に対する意識が変わってきたのである。
過剰な悪い方向の予報や警告を容認するようになったのである。

ここで思ったのであるが、これはある出来事がきっかけの事象で、今更のことではないのではないかと。
社会が成熟して賢くなったとも言えるのではあるが、単なる一過性の過剰反応とか。
トラウマとか言うのも似ているかも。
痛い思いをしたことが記憶にあって、同じようなことに近づかないのが、普通の反応であり、しかし、それとともに代わりに失うとか、楽に得られるものをみすみす見逃すとかがあることもあるだろう。
そんな中にあって、そんな経験を持たないものにとってはさほどの苦労もせずに得をすることになる。
この場合にも当然ながらその行為にはそれなりのリスクがあって、得どころかとんでもない痛手になる危険性はあるわけである。
しかし、この危険性は、確率としては低いわけで、現に先に述べた災害とかもこれまで起きてこなかったことなのだから、だから、また直ぐに起きることはこれまた確率的に極めて低いのであり、ほとんどの場合、その危険に出会うことなく、楽に目的を達することができる。

こんなことを眺めると、どう思うだろう?
あまり、こんなことを書き続けるのもなんだから、適当に終わるが、‥…