『心肺停止』の表現に、異和感

最近の言葉で、気になる。
『いつ✖✖したもおかしくない』、『心肺停止』。
今の御嶽山の噴火でも、『心配停止』のまま、の人がたくさん!
こと、人の命、生死のことだから、うっかりの物言いも難しい。

以前、昔は、溺れた人が助けあげられたときに、心臓が止まっていて(当然というか、そんな時は呼吸も止まっているだろう)、まさに心肺停止。
でも、人口呼吸などの手当により蘇生することもあるということで、心臓停止でも死亡とは言えない定義が定着してきたものだろう。
そして、蘇生不可能と見なされた段階で『死亡』となる。
この判断をする人が、医師のようであることはわかる。
しかし、だれでもわかる明らかなことが、これを判断、判定する人が、言わないことには、話が先に進まないのが現社会のようだ。

災害の度に『心肺停止』が言われる。近親者にとっては、死を認めたくない気持ちはわかるが、認識はしている訳で、どんなものだろう、、

違った見方をすると、
心肺停止が確認されているにもかかわらず、遺体(この表現も如何となる、なぜなら死亡とはなっていないなら)を回収できないから、判定を下す資格権限を持った者が現場に行けないから、つまり、だれも死亡とは言えない、言えば、何を勝手にとか、越権行為とかになるのだろう、

いやはや、社会の成熟とはこんなことのもなるのかと!

心肺停止、だが死亡でもない!
では、では?!
もう何日も、呼吸もせず、心臓も動いていない!
でも、死んでいない!
ゾンビ、か、!

そのうち、踊り出すのか、マイケルのスリラーのように!

死者を冒涜する気はないのだが。
死者が可哀想な気もしたり。
早く何とかしてあげることであるけど。