久しぶりに、パソコンから、数日を振り返って

この三連休、やはり台風の予報による耳影響が関係しているように思われる。
折角の連休だから、何かしたいと思うものの、どこかに行くにも宿が空きが少ない、それよりも料金がばか高だし、馬鹿くさくもなってくる。
それに加えての台風情報である。
関東への影響はまだまだ先であるのに、連休明けにはかなり影響しそうなことを声高に放送している。
先週(いや今週始め)も同じようなコースの台風18号であったから、皆それから連想しているから神経に気になるものだろう。
そういう自分も少なからず影響を受けている。
いつものことながら、どうせ関東にはさほどのものではないと思ってはいるのだが、・・
とは言っても、絶対無いとは言い切れないことだし、前回も午前中の仕事中に通過して行ってしまったのだけど、朝の通勤で靴の中が濡れてしまったこと(これは靴がボロで下から浸みてきたもの)とかを思うとちょっと気になってしまう。
交通機関のことも関係あるのだけど。
前回(今週始め月曜日)は武蔵野線なんか始めから間引きのダイヤで決めていたようだし、だから遅れが出るし、そして皆、回避出来る人は別ルートに逃げたりして大きな問題にはなっていないものの、それでいい気になってるJRにも腹が立つ。自分も武蔵野線を避け、埼京線で赤羽、そして京浜東北線を避け宇都宮線で上野へ、そしてまたまた京浜東北線を避け地下鉄日比谷線で八丁堀に行った。この方が速いのだけど。だからいつもより15分も早く職場に着いた。
おまけに、帰りは武蔵野線で来ようかと東京駅で折り返しの電車に乗ったけど、出発間際の車内放送で、武蔵野線直通ではなく、西船橋で乗り換えであることを知り、直前で降りて、京浜東北線で帰ってきたものであった。つまり夜になっても間引きダイヤのままにしていたようで、埼京線武蔵浦和に帰ってきたときに武蔵野線の状況を見ると、やはり遅れたり次の列車案内が間引きで変になっているようなそんな様子であった。
直通でもない武蔵野線に乗って、西船橋で乗り換えて座れるはずもなく、混雑に立ちんぼしていたらしょうもない。
また、京浜東北線で帰るときに、赤羽から埼京線に乗り換えてよかったと思うが、それをそのまま京浜東北線南浦和まで行って武蔵野線とかしたら、またまた遅れと混雑に翻弄されていたであろう。
まったく武蔵野線ときたひにゃ、いざと言う時に困ってしまう。

そんなこともあって、台風情報には敏感になってしまう。
今度の台風19号もどうせ関東には大したことなく終わるのであろうが、それでも早いうちから雨にはなるかと思っていたのである。
三連休の中ほどから、つまり今日12日(日)ころには。早くは連休初日の午後辺りには。
と思ってあまり行動しにくいと考えていたものだろう。
だから旅行に行ったとしても宿もないし、高いし、だから家でのんびりしようかと。

それから心理的に影響することがらとして、職場の会社での動きもある。
三連休に入る直前の金曜日のこと。
社内メール等で、台風19号のことについて連絡が回っていた。
連休明けに台風が関東に接近の情報により、会社が三連休に入る前の金曜日の段階で判断せざるを得ない訳で、その段階ではかなり影響の予想される予報となっていることから、会社も出勤のことに配慮して、無理して出勤しなくても良い、という旨の連絡であった。
そうなると不思議なもので、少し気持ちが楽になって、無理をしなくても、遅れても、あるいは状況によっては休んでもいいのかなとの気持ちにもなってくるのである。
それとともに猶更台風の影響を意識するようになるのである。

そういった情報と言うものは、結果的にたいしたことないものでも、意識すればするほど、考える幅が広がり、より安全サイドに考える傾向にあると思うのだ。
だから、「もし」とか、「場合によっては」とか、考え始めるとどんどん悪い方に広がっていくのだ。
それが「保険」に傾くことだ。保険の売り言葉に「もし」がある訳で、これを否定するのが難しく、まして自分ひとりのことなら自分の責任で済むのだが、家族のこととかになると、自分ひとりで責任を持てないし、これが会社のことになったり、社会的なこととして捉えたときは、「もし」に対して「大丈夫」と保証できるものは無くなるのである。
(それを保険会社や宗教は巧みに利用している、と言える)

そんな訳で、そんなことにも影響されて、自分も今回はどこかに行く予定を、当初は考えていたのだが、だんだんにしぼませてきていて、今、こんな書き物をしている。

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何を書こうとしていたのか、わからなくなってきている。
そのときにだったら、言いたいこと、書きたいことってあると思うのだけど、それが後になってからでは、意外に書けないものである。
状況が変わってしまうから。
感覚が薄れてしまうから。
もっと他のことがどんどん起きてしまうから。

衝動買いならぬ衝動書きかな。
そのときでなければ書けないことがあると思う。
落ち着いて考えたら馬鹿らしいことにしか思えない、なんてこともあるだろう。
だけど、その瞬間に感じたこと、考えたことって、案外意味のあることかも知れない、とも思うのだ。

話はそれるけど、この初めのときの感覚が大事な例。
物事の第一報の持つ意味。
ニュースの第一報ではみな、アッと思ったりするとしても、第二報以降の続報では、あまり感じなくなってくるだろう。
慣れてしまう。
それが国のことで報道によりゆがめられることに使われると社会的に怖いことになる、との考え方もある。
何かの値上げの情報とか、消費税の導入とか、初めは「なんという!」とか思っても、後は慣れてしまって、既成事実みたいになってきて、逆にそれを他の人に説明する役目をしているようになるとも。

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何だろう、何を書くのだろう、またわかんないことを書いてる。
先の金曜日の帰りのこととか、仕事のこととか、休みに入っての体調のこととか、思っていたけど。
スマホではあまり入力に手間がかかって、よほど退屈な時間でもないと出来ないとか、それでも状況によっては出来ないとかいろいろある訳で。
今は、パソコンでキーボードの練習がてらに、たくさんの入力をしてみるかとやっているようなところでもあり。

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また、本当は、まとめて書くのでもなく、いくつかに分けて、出来たものからアップしていけばいいと思うのだが。
意外とそれがしにくく思っている。
アップごとにタイトルを付けるとして、それが何か、面倒とかでもなく、何か、しずらいのである。
次も同じタイトルでは、その違いがわからなくなるし、それで何とかまとめて書いてしまおうとしたりするのだが、そうだとなかなかアップ出来ないし、書き始めたときの状況と、アップしたときまで時間が経過してしまい(極端な場合、書き込みが中断したり、アップ送信の直前で停まっていたりすると)、記録としてはアップしてサイトで受け付けた時の時刻がその書き込みに日時として付与され、それが記事を書いた日時に見られる。これにはちょっと不本意に思うことがあるのだ。
記事と時間のかい離が気になることである。
だから、その分だけでも早めにアップしたいと思うけど、もっと続きやいろいろ書きたいし、でも別タイトルにしてしまうと書きにくい。続きから書けばいいのか、これだけでもわかるように続きの前提、つなぎのことを書いた方がいいのかとか。
そしてつなぎのことを書いてるとそれだけでかなりの字数と労力を時間を費やしてしまう。

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まあ、そんな悩みをしながら書いたりしている。
この辺で一区切りとしておこう。
(次の約束は出来ないだろう。気持ちも変わってしまうから)